途中から見下されていく感覚に気づくとき
グループディスカッションってなんだろう
人と話すのは苦手じゃないし、むしろ好き。
人と仲良くするのも好き。
だけど、合意形成をする場になると自分の意見が言えなくなる。
それは私自身が思考がゆっくりで、すぐに考えて物を言うことができないからだと思う。
1人でじっくり考察してアウトプットするタイプだからこそ、瞬発的な力がない。
こういう力は私の強みでもある。普通の人が考えられる時間を優に超す時間、考え続けることができるから。
四六時中、それに囚われて頭から出ていかない。というより、気になるからずっと考えちゃう。熟考するのが私の思考回路。
それを許さないGDでは私のいいところは出てこない。
でも就活のGDは印象をみるだけだから、そこまで重要視してない。第一印象を見る程度なのだろう。
私自身、最初は人見知りがさく裂して、すごく大人しい。
それはわかってるし、ぐいぐい来られるのが嫌だからそういう態度になっちゃうというのもある。
だけど、このままだと面接という機会も与えられぬまま落とされる。
なんとか自分を偽って、進むしかないというのか。
それは私じゃなくなることを意味しないのか。
ありのままの私が活躍できる場なんてないのかもしれない。
でもそういう場所を求めて探してもいいじゃない。
どこが自分の居場所なのかなんて誰にも分からない。
自分自身で居場所にする、もしくは心地よいと感じて初めて気づく。
自然体の私でいたいのに、そうさせてくれない就活。
いや、偽らなければならないと勝手に思って自分を追い込んでるだけなのかもしれない。
人当たり良くて、いろんな人と仲良くなれる。それが私の長所。
でも、GDではとにかく結果を最初から求められるから、仲良くなる時間なんてない。
それがつらい。知らない人に対して自分の意見を言うのが怖い。
それは幼少期に親の顔色をずっと窺って生きてきたことが原因だろう。
自分を持つことが許されなかった。
それを急に持てといわれても無理がある。
自分を抑えないと生きていけない世界だった。
それが生きる術だった。そうじゃなければ、自分の精神が追い詰められてしまっていたに違いない。
これから親の顔色を窺って生きる必要がなくなる世界で、私は自分の意見を持ち、行動することが求められる。
急に自由になるのだ。
自分で選択できる世界で生きられる。
でもそれが怖い。怖くてたまらない。
今までは敷かれたレールの上を歩くだけでよくて、レールのない場所に急に放置されても私はどこを歩けばいいのかわからない。
甘えかもしれない。でもそう感じている人は私以外にもいるだろう。
GDではずっと司会をやることを避けてきた。だって怖いし。
回せる自信なんかないし。
でもやってみて思ったのは、
司会の大変さと周りの人の助けがどれだけありがたいことなのかということ。
ぐちゃぐちゃになった私を助けてくれた人がいる。
司会といえども、どんどん自分ひとりで進めてしまうのはあまりよくない。
そして周りの人を良く見て、うまくグループを回す役目なのだと学んだ。
意見をまとめる役というよりは、意見を言いやすい空気にしたり、答えやすい質問に置き換えてから、みんなから意見を出させる役割だと思う。
勉強になったな。いい機会でした。
同時に私のできなささにイラついたのか知らんけど、ちょっとだけ悪意を感じた。
先にも述べた通り、私は人の顔色を窺う能力が人より長けているため、すぐにわかる。
目が冷たくなり、声から感情が消える。
自分よりできない人に対して、人間が取れる行動は三つあって、
一つ目は見下すこと。二つ目は手助けすること。三つ目は無視すること。
全部いた。すごいね。
自分も全部やってるかもしれない。人の振り見て我が振り直せっていうことわざあるもんね。
人の悪いところばかり目に付く世の中。それでも私たちはいいところを見て、支え合って生きていかないといけない。
いいところがない人なんていないのだから。
話それすぎたな。
今日やったグループディスカッションで感じたことでした。
終わった後に残ったのは、疲労感と悔しさと見下されたことに対する悲しさ。
今日感じたことを忘れずに、次に活かしていこう。。